幻のビール「函館扇屋麦酒」とラベルに込められた物語

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函館の歴史の中で、ひっそりと姿を消したビールメーカー「扇屋麦酒株式会社」。

明治時代から大正時代にかけて函館に存在したこの醸造所は、五稜郭をブランド名に冠した「Goryokaku Beer(五稜郭ビール)」を製造していました。

そのラベルには、函館の文と時代の変遷が色濃く反映されています。今回は、4種類のラベルに込められた物語を通して、扇屋麦酒の歴史を紐解いていきましょう。

明治中期:桜と麦のラベル

このラベルは、扇屋麦酒が創業した明治20年代に使用されていたものです。

当時の函館は開港地として国際的な港町へと発展を遂げ、多くの外国船が行き交うだけでなく、市内に暮らす外国人の数も増加していました。扇屋麦酒は、そうした外国人たちの需要を見越してビール製造を開始。さらに、神戸や横浜、東京の外国人商館にも出荷していたため、ラベルには英語表記が採用されていました。

ラベルに描かれているのが函館山でなく富士山であることには違和感がありますが、これは外国人にとっての日本の象徴として採用されたようです。桜も同じ理由でラベルに描かれました。

明治後期:ビールジョッキと装飾的なラベル

明治30年代に入ると、扇屋麦酒は徐々に日本人向け市場の開拓に力を入れ始めます。このラベルは、明治後期から大正初期にかけて使用されていたもので、中央に描かれたビールジョッキが印象的です。ジョッキの上に泡がたっぷりと盛られ、周囲には桜の花と麦の穂があしらわれています。

装飾的な意匠は、ビールをたしなむことが「モダンで洗練された文化」の一部であることを強調しており、函館内外の裕福な日本人向けにアピールを強めていたことがうかがえます。

大正初期:錨と波のラベル

大正時代に入ると、扇屋麦酒は函館の港町らしさを前面に押し出したデザインを採用します。錨と波を描いたこのラベルは、函館の地元の人々に親しまれることを意識したものでした。

当時、扇屋麦酒は横浜や神戸から船で大量に輸送されてくるビールの台頭に押され、地元の庶民層への普及に力を入れていた時期でした。このラベルからは、外国人向け需要を意識しつつも、地元の漁師や港湾労働者に向け、五稜郭ビールを「函館の誇り」として定着させたいとの意図が感じられます。

大正中期:日本語表記が登場

大正中期、扇屋麦酒のラベルは、和洋の要素を融合させたデザインに進化します。錨のマークと波のデザインは踏襲しつつも、ラベルの上部に「扇屋麦酒株式会社謹製」の文字が追加され、日本人向けのアピールがより明確になっています。

「扇屋麦酒」の終焉

一時は神戸や横浜へのビールを出荷していた扇屋麦酒も、本州や札幌の大手ビール醸造所の著しい伸長に押され、経営が悪化していきます。大正の中期、ついに扇屋麦酒の醸造所の煙突から煙が上がることはなくなり、函館のビール史はいったん幕を下ろしました。

それから長い年月を経て昭和が終わりを迎える頃、函館で再びビール醸造が始まります。それはまた、別のお話。

鳴海 聡史
鳴海 聡史

今は、いろいろなクラフトビールを楽しむことができる函館。その背景には、知られざる歴史の物語がありました。五稜郭ビール、どんな味だったんでしょうね。

この記事は、函館を題材にした架空の物語です。函館扇屋麦酒という会社が存在したことはありません。五稜郭ビールのラベルは、架空のものです。函館に明治時代に実在したビール醸造所については、函館市史の記事「麦酒」をご覧ください。

函館幻想の名物
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